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広島花幻忌の会(原民喜文学の研究・継承)

当会は、原民喜の文学を愛する人々の集いです。会からのお知らせを随時更新します。

2020年 原民喜生誕祭ご報告

 

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(※ 以下の記事は2020年11月下旬公開済みでしたが、当会の手違いで昨年末

以来非公開扱いになっておりましたので、再投稿いたします。

長らくご迷惑をおかけし、大変申し訳ございません。)

 

例年になく暖かな霜月の日々が続いておりますが、

皆さまいかがお過ごしでしょうか。

広島花幻忌の会では、去る11月15日、原民喜生誕日に因んで恒例の

生誕祭を開催致しました。

新型コロナウイルス感染症未だ収まらぬ中での催しでしたが、

ご参加の皆さまのご協力により、無事に終えることができました

ことに厚く御礼申し上げます。

以下、写真と共にご報告いたします。

 

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遺影の前に献花し、民喜や原爆犠牲者の方々に黙祷を捧げます。

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最初は朗読コーナー。

広島市内の高校生2人が『原爆小景』から「日ノ暮レチカク」・

「コレガ人間ナノデス」、「小さな庭」から「かけかへのないもの」

などを朗読。

最後は声を合わせて、詩「永遠のみどり」を謳い上げるように。

 

「…とはのみどりを/とはのみどりを/ヒロシマのデルタに/青葉したたれ」。

作品の言葉が余韻する中、

「私たちの生きる未来には、戦争も核兵器も必要ありません。

平和な未来を作るため、これからも努力します!」と高らかに宣言し、

会場からは大きな拍手が湧き起こりました。

 

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続いて会員の高田裕志さんによる、小説「永遠のみどり」の朗読です。

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「梢をふり仰ぐと、嫩葉のふくらみに優しいものがチラつくようだった。

樹木が、春さきの樹木の姿が、彼をかすかに慰めていた。…」。

 

静かで落ち着きのある声が、会場内に響いてきます。

若者たちの瑞々しい朗読とは、また一味違った、大人の「聴かせる朗読」です。

 

 

小説「永遠のみどり」は、民喜が自らの自死前年の1950年4月に、

最後の帰郷を果たした折の出来事を描いた作品。

作品全体に、民喜が愛してやまなかった「みどり」の描写がちりばめられ、

彼が最後に目にした故郷の姿を彩ります。

「…子供の時、見なれた土手町の桜並木、少年の頃くらくらするような気持で

仰ぎ見た国泰寺の楠の大樹の青葉若葉、……そんなことを考え耽けっていると、

いま頭のなかは疼くように緑のかがやきで一杯になってゆくようだった。」…

民喜の眼には、未だ広島の至るところに「死と焔の記憶」が映っています。

しかし「平和講演会」に集まった人々の平和を求める熱意を前に、彼の眼前には

「緑色の幻」が現れてくるのです。

 

聴き入る会場内の方々の心にも、「緑の幻」が蘇ってきます。

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「目を閉じて朗読を聴いていると、戦前の広島の風景がありありと

思い出されてきました。国泰寺の楠の大樹は、そう、その通りでした。

立派な太い太い幹に、葉が青々と茂って、枝は電車通りに覆い被さ

っていて、電車の上の方まで届かんばかりでした。

聴きながら、あの頃が懐かしくて胸が一杯になり、涙が出そうになり

ました…。」

そう感想を漏らされたのは、古くからの会員さん(87歳:女性)。

「みどりと言えば、饒津神社辺りも鬱蒼とした杜でした。

深い深い葉の碧さ、濃い緑、新緑の若葉のみどり…。木々はどれも

幹が太く立派で、昼間でも薄暗いくらい。

静かで厳かな感じがして、しっとりとした潤いに満ちていました。

松の並木が続いていて、赤松も黒松も沢山ありましたねぇ…。

今とは全然違っていたんです。ああいう昔の風景を、民喜さんは

本当によぅ書いて下さったと思います。

聴きながら、懐かしい戦前の風景が、一度に蘇ってきました」。

 

朗読によって蘇る言葉の力…。素晴らしいですね。

高田さん、情感溢れる朗読を本当にありがとうございました。

 

続いて会顧問で原民喜甥の原時彦さんが、小説に描かれた

場面に関しての証言を語ってくださいます。

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小説「永遠のみどり」には、民喜が最後の帰郷の折に幟町や

「夏の花」で行動を共にした次兄の店を訪れて、

「みんなが揃っているところを一寸だけ見せてください」。

と、暇乞いをするかのように身内の者一同の顔を眺める場面も

描かれています。

 

「次兄」とは、原さんのお父さま。一家は時彦さんのご家族で、

民喜の願いに応じて出てきた一同というのも、原さんご自身や

ご兄弟姉妹です。

 

『母によると、その日夜、表戸をトントンと叩く音がして、出ると

父と一緒に民喜が立っており、民喜が「みんなを起こしてもらえ

ませんか」と言ったんだそうです。』

『私はまだ子どもでしたから、寝とったのを起こされて会いに出て

きたんですが、民喜は一人一人の顔をじっと見て、「ふんふん」と

納得したように頷いて、

「夜分遅くにすみませんでした、お邪魔しました、それでは…」

と帰っていきました。

その時はわからなかったんですが、後であれは民喜のお別れの挨拶だったん

だなと思いました…』

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 東照宮から避難した八幡村で、民喜と寝食を共にした原さんの、

大変貴重な体験談です。「夏の花」に描かれた民喜一行が、

そのまま丸ごと自身のご一家である原さん。

民喜自身の遺言により、原さんは彼の著作を管理する役目を命じられ、

長年に渡って「民喜の代役」を務めてこられています。

 

民喜が自身の帰郷や平和講演会などを描いたエッセイ「ヒロシマの声」

なども紹介。

来年数えでの米寿を控えた現在もなお、その役目をきちんと遂行されて

います。

天国の民喜さんも、きっと微笑んで下さっていることでしょう。

 

 

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第一部の締め括りは、広島市立大学特任教員・片島蘭さんに

よる、「基町資料室」のお知らせです。

資料室は、今年10月1日にオープンしたばかり。

場所は、今回の会場「中央公民館」から徒歩数分、基町郵便局

のすぐ近くです。

広島市広島市立大学が行う、アートを活かして

街の活性化を進める「基町プロジェクト」の活動の一環として

開設され、戦前の基町や復興期を伝える写真や資料、市営基町アパート

の模型なども展示されています。

原民喜さんの作品に描かれた、昔の基町の様子もご覧いただけ

ます。是非ご覧下さい!」と、片島さん。

 

資料室は、月・火曜日を除く毎日の、正午から午後5時まで開館

しており、入館無料。展示物は定期的に入れ替え、イベント

も随時開催予定だそうです。今後も益々楽しみですね!

 ※「基町資料室」広島市中区基町18-4-1 分散店舗208号 ☎︎092-555-8250

 

 

続いて第二部は、河野きよみさんが経験された、被爆体験です。

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広島県白木町出身の河野さんは、被爆当時14歳の女学校2年生。

原爆投下翌日の8月7日、宇品に嫁いでいた長姉、広島市内で

看護婦をしていた次姉さんを探すため、お母様と広島市内に

入って、原爆投下直後の様子を目の当たりにされています。

「市内に近づくに連れ、被爆されて逃げてくる方々の行列が

長く長く続いているのが、目に入ってきました。

もう、人間ではない、お化けのような姿で歩いておられるんです…。

市内は街中が負傷者や死体だらけでした。熱線に灼かれた身体は、

2倍にも3倍にも膨れ上がり、赤鬼のよう。男か女かもわかりません。

目玉が飛び出た人、内臓が流れ出している人、炭の棒のように

なった死体の方もおられました。もう、怖くて怖くて…。

母親にしがみつきながら必死で歩きました…。

歩いていると、足先にグニュッとした感触がするんです。

それは、酷い火傷をして倒れている人たちの死体でした…。

まだ虫の息で、生きておられる方もおられるんです。

怖くて見たくない、でも下を見なければ踏んでしまいます。

あの日のことは一生忘れることができず、思い出すこと

さえ恐ろしく思っていました…」。

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多感な少女時代に、阿鼻叫喚の地獄絵の中を彷徨う体験をされ

た河野さん。

高齢になるまで、その体験に触れることができなかったそうですが、

年齢を重ね70歳になった時、あの日のことを書き残すべきだ、

と思い直したそうです。

思い切って絵筆を執り、広島NHKが募集した「市民が描いた原爆の絵」

に応募。それがきっかけとなり、あの日のことを絵日記のように

まとめた絵本「あの日をわたしは忘れない」を出版されています。

 

上のスクリーンに映っているのは、広島赤十字病院の花壇の上に、材木の

ように積み重なって死んでいた、同年齢の中学生たちの絵です。

『…中々絵筆が進まず、愚図愚図していた時、あの少年たちが夢に出てきた

んです。「早く、僕たちのことを描いてください。僕たちのことを代弁して

ください」。と、叫んでいる夢でした…。うめき声、泣き声が聞こえてくる

ようで苦しくなりましたが、どうしても描かなくてはならない、と思ったん

です』。

 

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迫真のお話に参加者の方々も皆、心を傾けて聴き入っています。

『「お腹いっぱいご飯を食べたい」「お母さんに会いたい」

「お友達と遊びたい」「勉強やスポーツをしたい」…。

きっとそれぞれに、沢山の夢や希望があったでしょうに、

彼らは一瞬の光線によって僅か13、4歳で死んでしまいました。

原爆にさえ遭わなかったらと思うと無念でなりません。

でも、人間は希望を失ってはならないと思います。一人ひとりの

小さな声でも、沢山集まればきっと大きな力になり、平和な世界を

築いていけると信じています』。

 

 

最後にそう訴え、朗読の高校生たちにも一人ひとり、声をかけた河野さん。

高校生たちも前を向き、しっかりと頷いていたのが印象的でした。

「コハ今後生キノビテコノ有様ヲ伝へヨト天ノ命ナランカ」(原民喜「被災時のノート」)

との言葉が、会場内にいる人々の心にも蘇ってきます。

貴重な証言に、心から感謝いたします。

 

参加者の皆さま、貴重な証言をお聞かせくださった原時彦さん、

河野さん、また朗読の高校生や高田さん、基町資料室の片島さんら、

大変多くの方々のお陰をもちまして、有意義かつ心温まる集い

になりました。

厚く御礼申し上げます。

 

皆さま、本当にありがとうございました。

 

 

 

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⭐️なお、同日11月15日には、生誕115年を迎えた民喜さんに、

もう一つの誕生日プレゼントがありました。

この日の「HIhukusyoラジオ」は、民喜の詩から題名を取った著作、

「パット剥ギ取ッテシマッタ後の世界へーヒロシマを想起する思考」

を書かれている柿木伸之さんへの奥行き深いインタビュー。

それに続いて、パーソナリティーの土屋時子さんが原民喜

「夏の花」抜粋を朗読して下さったのです。

和やかで温かい、心のこもった大変素敵な朗読でした。

「Hihukushoラジオ」で検索クリックすると、どなたでも無料で

お聴きになれます。

バックナンバーも、広島花幻忌の会初代会長の息子さんである大牟田聡さん、

会員の切明千枝子さんへのインタビュー等、聞き応えのある番組が揃ってい

ます。どうぞお試しください!

 

 

 

 

 

# 原民喜 # 夏の花 # 平和 # ヒロシマ # 花幻忌 # 永遠のみどり