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広島花幻忌の会(原民喜文学の研究・継承)

当会は、原民喜の文学を愛する人々の集いです。会からのお知らせを随時更新します。

2020年秋の文学散歩ご報告

 

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春から長らく延期になっておりました、会主催の「文学散歩」。

今回は規模を15人限定と縮小して11月1日(日)に催行し、無事に終了致しました。

以下、写真と共にご報告申し上げます。

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  集合場所は、広島市中区幟町の世界平和記念聖堂。

広島で被爆したフーゴー・ラッサール神父の呼びかけに応じ、

世界中から集まった厚意や募金によって、原爆投下から9年後、

1954年に建てられました。

  被爆前は、この広大な敷地は一面に民家が建ち並ぶ住宅地。

前身「幟町天守公教会」は、現在の敷地(住宅地)の北辺りに位置

し、木造平屋造りの目立たない和風建物であったといいます。

 現在隣接されている音楽大学も勿論まだなく、向かいの幟町小学校も

現在地より北(現在の幟町公園の位置)。

 民喜が少年時代を送った明治から大正期、まだ街は城下町の面影を

色濃くとどめており、現在の様子とは全く異なる風景でした。

 

二階建てであった民喜の生家からは、物産陳列館(原爆ドーム)

の屋根まで見渡せていたことが、民喜の作品にも記されています。

 

 初めに訪れたのは、原民喜被災地(生家跡)。

現在はエリザベト音楽大学やマンションが建ち並んでいます。

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『…私は厠にいたため一命を拾った。…突然、私の頭上に一撃が加えられ、

目の前に暗闇が滑り墜ちた…』。(「夏の花」より)

「この辺りが原民喜生家の厠の位置でした。」と、説明をする、

民喜の甥で著作権継承者、また会の顧問でもある原時彦さん。

参加者の皆さんも真剣に聞き入っておられます。

 

8/6当日、原民喜は被災地から川を目指して北へ向かい、栄橋へと到着

しますが、

文学散歩一行は、栄橋より少し下流の京橋と、京橋袂の橋本町厳島神社

を経由し、川辺を描いた戦前の作品を味わいます。

下の写真は、市杵嶋姫神社(橋本町厳島神社通称名;明神さん)。

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京橋はすぐ近くに。橋の名は、広島城から京に向かう起点となることから名付け

られました。現在の橋は昭和2年に架け替えられたものですが、

丈夫な鋼橋で原爆でも落橋しませんでした。

民喜の作品の数々に描かれています。

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京橋欄干の南向こうには、比治山も見えています。

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昔は柳が生い茂る川辺であった、この一帯。

明神さんが勧請された江戸時代頃から、この川岸は「明神の浜」

と言われるようになりました。

毎年旧暦6月16日の管弦祭の折には、管弦船のお供をする御供船(おともんせん)

が繰り出し、夕暮れの川面には華やかに揺れるお供船の灯と、

護岸の民家の紋入り高灯籠が対照的に映え、幻想的な美しさであっ

たことが伝えられています。

 

『…昔、管弦祭の夜には京橋の明神の浜におとぼん船がやつて来た。

橋の上にはぞろぞろと人がひしめきあつて…(中略)…

かがり火が水に映り、衣装の金糸銀糸が火に照らされてー

それを見てゐると子供の私には、これはまるで幻夢の世界であつた。…』

(昭和25年12月7日 中国新聞 原民喜「広島の牧歌」より)

民喜少年の夢想を育んだ、美しい故郷ひろしまの川と街。

作品を味わいながら、参加者それぞれが、民喜が愛した戦前

の広島に思いを馳せます。

 

そのまま北へ、秋の川辺や雁木を目にしながら川辺を歩き、

原民喜ゆかりの被爆柳」へと向かいます。

(雁木のある光景も、民喜は作品内に描いています。)

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ここが民喜の持ち家で、本籍も置かれていた被爆柳のある地。

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柳には案内板も。

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『…その借家は母の遺産として彼が貰ったのだが、次兄がずっと棲んでいた。

生涯に一度はあの川端の家で暮らしてみたい、と妻は旅先の侘住居でよく

彼に話していた。…(中略)…彼はよくその次兄の家へ立寄った。玄関に佇めば庭と

座敷と川が一目に見渡せた。その庭先の緑樹は殆ど見おさめのように絢爛

としていた。…』(「火の踵」より)

「次兄一家」とは、原時彦さんのご一家。

当時の話に、皆さん熱心に聞き入ります。

 

ここから更に北へと秋の川辺を。

ほんのりと紅葉し始めた木々、美しい花々が目を楽しませてくれる

京橋川沿いの緑地帯。

花々は、町内会の老若男女で成る「花咲く水辺の会」の皆さんが、

月に2回集まって定期的に手入れをし、丹精込めて育てた花を

季節に合わせて植え替えてくださっています。

水辺の会の皆さん、美しい花々と緑を本当にありがとうございます!

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ここが栄橋。明治39年(1906)に豪商・熊谷栄次郎によって架橋され、

橋の名はその名一字を取って命名されたもの。

昭和5年に鉄筋コンクリートの橋として再架橋されており、

原爆にも落橋しませんでした。

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『…煙は崩れた家屋のあちこちから立昇っていたが、急に焔の息が烈しく

吹きまくっているところへ来る。走って、そこを過ぎると、道はまた平坦

になり、そして栄橋の袂に私たちは来ていた。…』(「夏の花」より)

 

この橋の近くでひと休み。

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文学散歩資料に目を通し、ゆっくりとお話を。

京橋川は栄橋より少し南、「上柳橋」東詰の「台屋(だいおく)の鼻」

で東と西に分岐。

ここからは右だけを京橋川、左に分岐した川を猿猴川と呼びます。

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写真中央が台屋(だいおく)の鼻。(出鼻(でび)とも呼ばれる。)

現在は上柳橋(右)と広島駅に向かう駅西高架橋(車専用。人・自転車は併設の

駅西歩道橋を渡る)が架橋されていますが、どちらも戦後のもの。

戦前の町名からその名を取った上柳橋は昭和41年(1966)、

駅西高架橋(駅西歩道橋)は昭和61(1986)の架橋です。

昔は軍事上の理由で架橋制限をされていたのです。

 

猿猴(えんこう)」とは、川に棲んでいたという、猿に似た河童の姿をした

妖怪の名。川に潜み、泳いでいる人の足を捕まえ、川の中に引きずり

込んで肛門から腹わたを抜き取る、と言われていました。

猿猴伝説など地域の逸話も聞きながら、戦前の広島の雰囲気

を感じていくと、「夏の花」の乾いた無機質な光景が、より一層

異様なものとして迫ってくるのを実感します。

 

今回の文学散歩には、リピーターの方、初参加の方々のほか、

平和公園通訳ガイドの皆さんで構成する「リンクヒロシマ

の皆さん8名も参加されました。

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メンバーの方々は、今年春の会の集いで作品朗読の予定でしたが、

春の集いは延期に。秋の集いも日程が合わず、発表は来年度の

集いまで持ち越しとなっていますが、皆さんよく

勉強されており、質問も積極的で大変に熱心です。

 

「民喜たちは、栄橋から縮景園(泉邸)へと避難し、火が廻ってきたので

そこから常盤橋袂まで筏で渡り、そこで一晩野宿したんです。

初めは砂州にいたんですが、そのうち潮が満ちてきたので

砂州から土手に上がって。私の父母と女中さん、赤ん坊だった下の妹、

民喜たちは土の窪みに横たわって一夜を明かしました…」。

 原さんの言葉の一つ一つを噛みしめながら深く頷いているのは、

メンバーの1人、アメリカ合衆国出身のコピーライター&

フォトグラファーのピーターさん。(下写真左)

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原民喜の研究をするためにポーランドから来日し、以来約30年在広して

大学で教鞭を取っている、会員のウルシュラさん(写真右)とも挨拶を。

大変インターナショナルな文学散歩になりました。

 

時間の関係もあり、栄橋からは東照宮まで車での移動です。

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栄橋を渡り、対岸の縮景園(泉邸)竹藪(写真上)を眺めながら、

民喜たちが一夜を明かした常盤橋袂を経由。

(写真下は、縮景園側から常盤橋と袂の砂原を撮影。

民喜たちは縮景園から筏で川を渡ってこの砂原に辿り着き、

土手に上がって一夜を過ごしました。)

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民喜と妻・貞恵が結婚式を挙げた鶴羽根神社は車窓から。

この一帯は広島城から見て鬼門(北東)に位置するため、鬼門守護の

寺社が集まっています。

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本日の最終地点、広島東照宮

民喜たち一行は縮景園対岸で一夜を明かした後、8月7日に

この境内へ辿り着き、同日夜はここで野宿。

東照宮には被災者の施療所が設けられていたことも

あって、栄橋ではぐれていた姪(時彦さんの上の妹)ともここで

再会。翌8日に馬車で八幡村へと向かうまでの約24時間を、

一行(民喜、時彦さんの父母と妹2人、女中さん)6人が

ここ東照宮境内で過ごしたのでした。

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二葉山を背景に、急な階段が圧倒的な迫力です。

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境内には被爆65周年に当たる2020年、民喜の言葉を刻んだ

追悼碑が建立されています。(写真下)

「コハ今後生キノビテコノ有様ヲ伝へヨト天ノ命ナランカ」

  (「被災時のノート」からの一節)

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追悼碑には「5年後」と題する、あの日の回想を記した民喜

エッセイの銘板も。

「一行はこの石垣(写真下、左手前の石灯籠の後ろの石垣付近)

辺りに屋根を作って野宿しました。

民喜は、ここで携えていた小さな手帳(「被災時のノート」)

に記録を綴り、それを基に八幡村で作品を書いたんです…」。

説明を食い入るように聞く皆さん。

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質問も大変活発でした。

 

「リンクヒロシマ」のピーターさんからは、後日以下のメッセージもいただきました。

「 From the delta of Hiroshima where green leaves glisten, may peace spread to all the world. 

- Peter Chordas

青葉したたるヒロシマのデルタから、 世界中に平和が広がることを心より願っています。

ピーター コーダス」

民喜の言葉によって世界に広がる平和の輪。嬉しいですね。

 

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「世界平和の実現を願って活動しています。

 朗読も頑張ります!」と、メンバーの皆さん。

 

その他の参加者の方々も、大変お疲れさまでした。

無事に良い文学散歩になりましたことを感謝いたします。

 

なお、当会の文学散歩は、地域の各町内会や近隣の方々と連携し、

また東区地域おこし課からもお力添えを賜わり、

多くの団体や個人の方々から、ご協力並びに応援やご支援を頂いております。

この場を借りまして、心からの御礼を申し上げます。

皆さま、本当にありがとうございました。           

                           広島花幻忌の会

 

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11月15日(日)の生誕祭も宜しくお願い致します。

詳細は一つ前のブログ記事にご案内を掲載しております

ので、どうぞご覧ください。

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(2020.10.27 中国新聞 文化欄より)

 

# 原民喜 # 永遠のみどり # 被爆樹木 # 夏の花 # 文学散歩 # 花幻忌 # ヒロシマ 

# 平和