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広島花幻忌の会(原民喜文学の研究・継承)

当会は、原民喜の文学を愛する人々の集いです。会からのお知らせを随時更新します。

原民喜・広島花幻忌の会について ①


漸く暑さも少し和らいで参りました。猛暑の疲れが出てくる頃でもありますが、
皆さまお健やかにお過ごしでしょうか。

さて当会ページに最近「原民喜や会の概要を知りたい」という、嬉しいお声を
頂きました。ご要望を受け、これから数回に分けて 順次 原民喜 及び 会のあらましを
少しずつご紹介させて頂きます。
会のパンフレットも数回に分けて掲載しますが、若干見えにくいところもあろうか
と存じます。何卒ご寛恕くださいますようお願い申し上げます。

(パンフレット 1面)

原民喜のことー花幻忌の会のことー
「魂の救済」を求めつつ歩んだ詩人

原民喜は1905年11月15日、広島市幟町の、この地に生まれた。軍都として色彩の濃い
広島の街は、日露戦争の勝利に沸いて日毎よごと、ちょうちん行列やばんざいの声が
こだましていた。原家は日本陸海軍用達の縫製業を営み、世界記念平和聖堂から京橋川
河畔に至るこの地一帯が原家の敷地だったほどの富豪だった。「民喜」という名前は、
戦勝気分にわく市民の姿にちなんで「民が喜ぶ」意味をこめて付けられた本名である。
生まれながらに、日本が歩むことになった近代戦争と重なり合う人生となった。
1920年代、慶応大学に進学した民喜は「三田文学」などに作品を発表し始める。それら
は、例えば自分の葬儀に立ち会うもう一人の自分がいたり、すでに死者となった二人の
友人が夜の繁華街で偶然に出会い、別れていく「幻視の風景」(シリーズ「死と夢」)、
広島駅から宮島にいたる風景の克明な描写など、少年の目に映った広島の近代を映す
(シリーズ「幼年画」)など、そのすべてが短編小説だった。一方では「杞憂亭」という
俳号をもって俳句も書いていた文学青年だった。
昭和19年秋には、平凡な見合い結婚だったが、心から愛していた妻・貞恵に先立たれ、
20年1月、彼は妻の遺骨を抱いて千葉県から傷心の疎開帰郷をする。そして8月6日、
まさにこの地で原爆に遭遇する。幸い、「厠(かわや=トイレのこと)にいて」難を免れた
民喜は、家族と一緒に縮景園から東照宮へと避難する。その道筋で見た光景を、野宿しな
がら持っていた手帳に書き留める。「原爆被災時のノート」と呼ばれるその手帳は、今も
原家に大切に保存されているが、被爆の惨状をリアルタイムで記録した貴重な文献である。
そのノートを元にうまれた「夏の花」「廃墟から」、あるいは詩篇「原爆小景」などは、
戦後文学の出発点に刻まれた傑作である。
あるいは「一つの嘆きよ、僕をつらぬけ、無数の嘆きよ、僕をつらぬけ」とらせん階段を
上昇していくような不思議な小説「鎮魂歌」もある。亡き妻を慕い続ける「一つの嘆き」
と、現実に見てしまった「無数の死」をつづった一篇である。
「もし妻と死別れたら、一年間だけ生き残ろう。悲しい、美しい一冊の詩集を残すために
…」(「遥かな旅」)と記した彼は、無数の嘆きをかかえこみ、魂の救済を願って戦後の5年
余りを書き続けた。そして昭和26年3月13日深夜、東京の中央線に身を投じて自死した。
朝鮮戦争のさなかであった。


遠き日の 石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ 天地のまなか/一輪の花の幻
原爆ドームを振り仰ぐ位置に、「碑銘」という4行詩を刻んだ民喜の詩碑が ひっそりと
建っている。文字は、民喜の遺筆をそのまま刻んである。「ヒロシマ」の惨劇の中に、
鮮やかに浮かぶ「花の幻」。民喜の命日を花幻忌と呼ぶゆえんである。
広島花幻忌の会は、彼の没後50周年記念イベントを前に2000年秋に結成された。毎日3月
や11月には碑前祭、花幻忌のつどいなどを営み、不定期で開く研究会や「夏の花」のコース
をたどる「文学散歩の会」などを通じて、その作品を次世代に読み継いでいこうと活動する
市民サークルである。
( 2009年 秋 広島花幻忌の会 秋の生誕祭のプログラムに掲載。
文・前事務局長・海老根勲(故人))

※ 「原爆被災時のノート」は、原時彦氏が広島市平和記念資料館に寄託さ
れ、現在同館による委託管理がなされています。

(下 パンフレット6面)

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